Web限定コラム

矢部 京之助
(大阪体育大学大学院スポーツ科学研究科)

 108年ぶりに、オリンピックはアテネに里帰りをしました。その興奮と感動の余韻にひたる9月17~28日に、「もうひとつのオリンピック」と呼ばれるパラリンピックが同じ会場で開催されました。136の国と地域から3,969人の選手が参加しました。日本からは163名の選手が参加し、過去最多の52個のメダルを獲得しました。予想を超えた活躍は障害者スポーツの振興にとって追い風になります。

 わが国の障害者スポーツは2つの側面から支えられています。ひとつは、東京パラリンピック(1964)と長野冬季パラリンピック(1998)開催をきっかけに、競技スポーツが発展したことです。他のひとつは、養護学校の義務教育化(1979)によって、障害のある児童生徒の体育・スポーツ参加が普及したことです。このパラリンピック・ムーブメントと、特殊教育における体育指導の充実が今日の障害者スポーツ振興の礎を築いたといえます。

 ところで、表題のアダプテッド・スポーツ(adapted sports)ですが、馴染みの薄い言葉だろうと思います。具体的には、スポーツのルールや用具を実践者の「障害の種類や程度に合わせたスポーツ」という意味です。身近な例では、トシと共に視力は衰えますが、メガネをかけると、明るい世界に戻れます。メガネはアダプテッド・エクィプメントです。このような工夫や対応策によって、障害者は勿論のこと、体力の低い高齢者でも、誰でもスポーツを楽しむことができるのです。

 例えば、高さの違う2つのバスケット(120, 305cm)を設置した車椅子ツインバスケットボールや、ツーバウンドでボールを返す車いすテニスがあります。あるいは、障害者と健常者が一緒に競技する車いすダインスや盲人マラソンなどがあります。健常な伴走者とロープを握りあって走るマラソンは、一本のロープが障害のある人と、ない人とのバリアーを取り除く手段になっています。インクルージョンの実践です。このようなスポーツは、障害者が主役であっても、a)必ずしも障害者に限定したスポーツではないこと、b)国際的に障害者といった包括的な表現を使わない傾向にあることなどから、アダプテッド・スポーツという用語を提唱する次第です。

 アダプテッド・スポーツの支援対象である障害者と高齢者の状況についてみると、障害児・者は約656万人(人口比5.1%)と推計されています(平成16年版障害者白書)。総人口の20人に1人は障害者ということです。18歳以上の身体障害者は342.6万人ですが、その2/3は65歳以上の高齢者が占めています。しかも、70歳以上では2人に1人が何らかの障害のある人です。他方、65歳以上の老年人口は2,484万人(人口比19.0%)ですので、総人口の5人に1人は高齢者に相当します。10年後には4人に1人の割合に増えると見込まれています(総務省2004)。このように増加する高齢者や身近な障害者のQOLの向上と、加齢にともなう障害発生の軽減・予防に寄与するアダプテッド・スポーツの推進は、急務の社会的課題といえます。

 しかし、アダプテッド・スポーツを実践する際には、障害者や高齢者に対する社会(健常者)の理解が不可欠です。この点は、欧米に比べてわが国やアジア諸国の遅れているところです。この有形無形のバリアーを取り除く方策のひとつは、理論に裏付けられたアダプテッド・スポーツの実践を積み重ねることです。それには、アダプテッド・スポーツ科学のスペシャリストの養成が必須の条件になります。具体案としては、アジア諸国の大学院にアダプテッド・スポーツ科学専攻を設置し、アジア共通の修士号を付与する機構を創設することです。

 例えば、日本の大学を基地にして各国から10~20名の大学院生を募集する。修業年限2年のうち、前半の1年間はアジア諸国から招聘した10名程度の教授の講義および演習を受講させる。後半の1年間は院生が選択した教授の本務校で修士論文を完成させる。これにAsian Master's Degree in Adapted Sport Scienceの称号を授与する。

 この構想を実現させるには、教育年限、言語、財政支援などの多種多様な課題をクリアーしなければなりませんが、グローバリゼーション時代の大学間交流や国際交流の進む昨今では、さほど困難な道程ではありません。それは、アジア諸国とも増加する高齢者や障害者の健康やスポーツが社会的課題になりつつあるからです。これらの解決には、体育学・スポーツ科学の知的財産を背景に誕生したアダプテッド・スポーツを活用することです。アジアのリーダーとして、日本が範を垂れる時機到来です。

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2003年3月 3日 ゲストコラム

スポーツ指導者養成の規制緩和

芝山 秀太郎(鹿屋体育大学 学長)

 発育期のスポーツ・プログラムの編成・あるいは各種生涯スポーツ推進事業の展開にあたって、科学的な基礎知識をそなえ、多様なニーズに応える幅広い応用能力を身につけた新しいタイプの体育指導者が求められている。これに対し、文部科学省系(コーチ、教師、スポーツプログラマーなど)、厚生労働省系(健康運動指導士、ヘルスケア・トレーナーなど)の各種資格が提案され、(財)日本体育協会を始めとする様々な法人によって、資格取得講習が実施されている。しかしこれらは講習会の規模その他により、いつでも、どこでも、誰でもが受講することのでき難いシステムになっている。それでいて、大学で体育科学を専攻したものにとっては、二番煎じの講習科目が大半を占める。

 これまでの資格取得講習会が、20世紀のスポーツ指導者の専門知識育成に大いに貢献したであろうことは想像に難くない。しかし新世紀の高いスポーツ要求に応えるには、これまでの指導者養成制度の無駄なエネルギーを、是非とも有効需要に変えていく努力が必要となる。

 文部科学省系あるいは厚生労働省系の体育・スポーツ指導者資格で、必須の講習科目に指定されているのは、次の10科目である。すなわち、スポーツ社会学、スポーツ経営学、運動生理学、バイオメカニクス、スポーツ医学、スポーツ栄養学、トレーニング科学論および同実習、運動処方論および同実習、救急処置方および同実習、スポーツ心理学。

 体育・スポーツ指導者資格は、これまでは指導対象の種類別(鍛錬、非鍛錬の別、地域職域の別、専門種目の別)に細かく規定されてきた。体育・スポーツの指導に限ってこれほどの狭い専門性が要求されるのは何故であろうか。大学・短大で体育科学を専攻した者が、とくに上記10科目を履修したものが、それでけでは体育・スポーツの指導者資格をまったく認められないのは、高等教育の内容が信頼に値しないというのであろうか。

 今日の「聖域なき構造改革」で俎上にのぼった大学改革は、専門分野(体育人)で評価の得られない高等教育機関(体育大学、体育学部、体育短大部)は存立の意義を失う、とまで言い切っている。体育人が、体育・スポーツ指導者資格に理屈を持ち込むあまり、体育科学を専攻する大学・短大の存在意義を失わせてしまうことになっていくのではないか。 体育スポーツ指導者資格を「体育士」「運動士」「健康士」「運動処方士」「体力診断士」「健康運動士」など、英知を結集する必要があるが、それらの資格を付与する要件として、次の3種が考えられる。

(1) 大学・短大で体育科学を専攻した者には、無条件で資格を付与する。
(2) 大学・短大および体育専門学校で、上記10科目を履修した者に、資格を付与する。
(3) 前述(1)あるいは(2)を満足する者に受験資格を与え、たとえば(財)日本体育協会に共通資格試験を行わせて、資格を付与する。ただしこの場合でも、医師や看護婦などの資格試験にならって、80~85パーセントの合格率を目途とする。


 現行の各種民間団体の実施する講習資格はすべて「資格」の専門性ないし得意分野を示すオプションとする。たとえば医師-健康スポーツ医、弁護士-民事担当のように表現する。体育士-C級コーチという例。

 高等教育を受けた体育人が、就職した任務に応じ、指導対象の性・年齢や鍛錬度に応じ、創意をもって適切な運動処方を考案し、実践してきた事実を尊重し、医師、看護婦、弁護士、小学校教諭のように、資格はおよぶ限り自由度を大きくする。教員免許状が学校種別を廃止する方向で資格の規制緩和がすすんでおり、医師や弁護士が開業にあたって、専門性を自身の判断で決めていることは周知の通りである。

 かつて水泳のロス五輪代表長崎宏子選手(200平)が秋田のスポーツクラブで、体操が専門のインストラクターに育てられた事例があり、女子陸上競技で初の金メダリストを育てた小出義雄監督(積水化学)が、フルマラソンのコーチはできても、フィットネス・クラブでジョギングの指導はできないという建て前論議を聞くと、体育人が、体育科学専攻の高等教育機関を、まるで信用していない実態にたどりつく。

 社会が医師を必要としたから医科大学が設置されたように、社会がスポーツ指導者を必要としたから体育大学が設置された自明の理を、体育人一同で猛省することを提案したい。

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